物ごごろがついた頃(遅く、小学生低学年)、その人達は私の身近にいた。
私達兄弟(私、妹、弟)は 子供の頃、自分達の両親をパパ、ママと呼び、その人達を 娘の弥々さんが呼ぶように ちち、はは と呼んで 大きくなった。 成人すると 両親の呼び方は 変わったが、その人達 宇佐美圭司さんと爽子さんは ちち と はは のままだった。
二番目のお父さんとお母さんだった。
数年前 あっという間に ちちが天に召され、これから ははが その素晴らしい才能を発揮させるのか と 思っていたら、末期の卵巣癌だと、、、、、この冬は越せませんよと言われた冬ともう一冬を越して はは は、旅立って行った。。。。。。
もっと メールを書けば よかった。はは は すぐ メールの返事をくれたり 絵葉書を送ってくれたりするので、ついつい 返事が書けなかった。
私の中では、はは は 画家だったけど、舞台美術や陶芸もやっていたし、自邸の設計にも深く 関与した。広く広く 芸術家だと思っている。(福井のアトリエの設計時に 大学生だった妹をパリに送り出し、ピカソ美術館の間接照明などの写真を撮らせ、参考にした)
まだ 20歳前半の頃、福井のアトリエに泊まっていた時、「今日 お客様が来るから、陽子 お濃茶 立ててね。」と言われ、え〜〜〜と思いながら お迎えして お茶を立てのが 今は亡き 勅使河原宏さんだった。この方も はは の才能を高く買っておられて 関西の大学の講師などのオファーをしていたと聞いている。
そう、私のママも はは に 絵を習っていたけど、とても 教え方が上手だと 子供心に思った。。。。。
(今、自宅には ははの絵画教室に通っていた時の ママの絵が 多数あります)
今日 初めて見る はは の 絵の多彩さ。長く 描いていると言っても 水彩、油絵、自画像、ちちの絵、弥々さんの絵、動物画、ファンタジー、、、、、、、
集約した個展だった。もう一度 行って ゆっくり見たいと思う。
一つ一つが 精密で 美しい。
はは の 自画像、多分 鏡に映った描いている自分を描いているのでは と思った。(あと、 若い)
7月29日まで。 東京 京橋 南天子画廊にて。
成人のお祝いにもらった絵。
20歳ごろの私。その当時 お気に入りだった 中近東の民族衣装を着ている。
何が 面白くないのか、、、、やや ふくれっ面。
左の紫 某有名?建築家(私のパパ)
右 手前 白い髭 元写真家 今 瓦焼き(篠山紀信の先生)
右 奥 一塗り数百万の左官の大親方。
に囲まれる はは。
既に 余命宣告は受けていて、しかし、酒も飲み、タバコも吸っていた。
福井アトリエの風が通るテラスにて。